ショパンが考えたと思われるエチュードop.10およびop.25の目的を列挙します。

  • それそれの指の役割分担の明確化=5本の指の平均化を目指さない
  • 役割を分担できるだけの各指の独立性の獲得
  • 鍵盤に対する指の位置や角度の微調整による常に最適なフィギュレーション獲得
  • 上記に関連して、弾きやすいフィギュレーションを維持するために主に手首と肘の使い方の工夫
  • 幅広い音域を無理なくつかむ指間の拡大
  • さまざまなタッチの使い分けによる繊細で豊かな音色表現
  • さまざまなカンタービレの使い分けによる歌曲的な旋律表現
  • 「音楽の中心≠演奏技術の中心」の徹底。難しいパッセージほど難しくないように聞かせる。
  • 面白くないものを面白く。難しいものも面白く。愛らしく。楽しく。切なく。情感豊かに。
  • バッハの平均律集のような素晴らしい曲集を作りたい!

これらの要素が単一でなく1曲のなかに必ず複数、しかも並行して、渾然一体となって存在するのがショパンエチュードの最大の特徴です。それまでのエチュードは、練習目的は1曲あたりただ1つしかないのが基本でした。複数あったとしても、同時並行する練習曲は非常に稀なものでした。そのためどうしても味気なく、面白みに欠ける曲想になりがちでした。ショパンは1曲に対して複数の練習課題を盛り込むことで、練習曲を単なる練習としての存在を越えて誰でも楽しめて、なおかつ奥深い芸術性を持った楽曲へと変貌させたのです。

おそらく少年時代のショパンは、師に薦められるままクレメンティのパルナッスムやバッハの平均律集を弾きながら「練習曲とはなぜこれほどまでに味気のないものだろう」「バッハのプレリュードやフーガはこんなにも面白いのに」と日々思っていたはずです。味気のない練習曲をどのようにしたら弾いても聴いても楽しい曲にできるのか。それに対する明確かつ決定的な回答が、この2つの練習曲集です。このアイディアがなければ、のちの大作曲家がこぞって作った演奏会用練習曲は生まれえなかった、といえます。ショパンはさまざまなジャンルのピアノ曲の創生を行っていますが、20代の初めにいきなり演奏会用練習曲というジャンルを確立してしまいました。史上初の演奏会用練習曲集が、同時に史上最高の演奏会用練習曲集となったことに異論のある人はいないでしょう。ショパンは史上初かつ史上最高、というジャンルをほかに2つ作っています。スケルツォとバラードです。これだけを取っても作曲家としてのショパンの偉大さがわかろうというものです。

では、上記のような練習課題をどのように各曲に盛り込んだのか、少し述べてみます。たとえば・・・

  • 似たような音型の連続で運動性の獲得目的の練習であっても、構成音が少し変化しただけで全く異なるフィギュレーションを取らないと弾ききるのが困難になる曲。
  • 10度以上の幅広いアルペジョを連続して弾かせ、なおかつ内声まで含めた緻密なタッチ制御を要求する曲。
  • 片手だけで旋律と伴奏を同時に演奏させることで指の独立性とカンタービレな演奏表現を同時に習得させる曲。
  • 片手で常動的で技巧的な伴奏や装飾を奏でさせ、一方の手で悠然とカンタービレな旋律を演奏させ、テクニックを完全に音楽の外に追い出してしまう、しかし高度なテクニックがなければ音楽として成立しえない曲。
  • 素早く困難な跳躍を伴うパッセージを伴奏とし、別の手でこれまたカンタービレな旋律+対旋律を5本の指で分担させて弾く曲。
  • 信じられないほど多数の音符を1小節に詰め込み、ピアニスティックな表現の幅を極限まで拡大しつつ、拍節感を保つ曲。
  • 演奏困難な重音をさまざまなアーティキュレーションで奏することで刻々と移り変わる柔軟なフィギュレーション変化を身につけると同時に、各指の独立を促す曲。

・・・などなど。これを読んですぐ「ははーん、あの曲だな」と思い浮かぶ人もいると思います。


さて、ここまでくれば、この練習曲集の本当の目的は明らかです。

「真のテクニックは、ただひたすら、音楽のために!」


この言葉はカール・ツェルニー先生が自著で書いている言葉です。あの無味乾燥なツェルニーのエチュードも、豊かな音楽表現のためにはどうしても必要なのでした。




※出所不明な情報

ショパンのピアノ協奏曲が演奏困難といわれたので、ピアノ協奏曲から特に弾きにくいと思われるパッセージを抽出した練習曲集を作って、多くのピアニストに弾いてもらおうという裏の目的もあったと言われています。